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あまりに悲劇的な逆説 -東京裁判での最終弁論- |
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| ちょっと堅苦しい話です。極東国際軍事裁判(昭和21年5月3日に開廷され、昭和23年11月11日に閉廷した)、いわゆる東京裁判で被告人(戦犯)側の特別弁護人となった高柳賢三氏(東京帝国大学教授)が冒頭陳述として提出した文書のなかで引用した、「地獄への道は善意で舗装されている」(単に一生懸命頑張っている、あるいは、良かれと思ってやった、というだけでは不十分だ)という言葉の源をたどりつつ、この文書に含まれている驚くべき逆説を読み取ってみたいと思います。 なお、高柳賢三氏が冒頭陳述のために準備した、この文書は、本来冒頭陳述を行うべき昭和22年2月段階では法廷での朗読が許されず、昭和23年3月に行われた弁護人側最終弁論の段階でようやく法廷での朗読が許されました。そこにすでに、第1の逆説が認められます。つまり、被告人弁護のために準備されたこの文書は、実際にはその弁護のためにほどんど役に立たなかったのです。 この「地獄への道は善意で舗装されている」という言葉は、法律家にとってとても馴染みの深いものです。かつて法学部生であれば必ず1度は目を通したといわれるラートブルフ著『法哲学(ラートブルフ著作集1)』(1961、東京大学出版会)158頁〜159頁においては、法と道徳とを区別するにあたって「人は、外部的行態(行為・態様)において法的規制に服し、内部的行態において道徳的規律に服する」という基準が有用かどうかを述べる件で、次のような記述がなされています。 「法的評価が外部的行動に限定されないと同様に、他面道徳的評価もまた内部的行態に限局されはない。否それどころか内部的行態と没交渉な場合がある。人は何らの行動も伴わないような『叶わぬ希望』や、地獄への道を舗装している『善き意図』を決して功績と考えないのと同様に、当然に『悪しき欲望』とか『企図』とかにはなお罪を見出さないのである。受動的な衝動生活そのものは道徳的に重要なものではなく、道徳的に重要なのは専ら(もっぱら)それに対立するところの能動的意思である。しかし意思はまさにその行動性によってのみ衝動と区別され、行動のみが意思の存在を証明するのである。かくして道徳の適用領域をまさに人間の行動の中に求めるのは正当であるといえよう。」(原典の初版は1914年、第2版は1922年、第3版は1932年に出版されている。( )内は筆者)) 高柳賢三氏は、検察側が提唱する新国際法理論は事後法(行為が行われた後につくられた法)であって、これによって被告人を裁くのは違法であるとの件において、「文明諸国が数世紀にわたって辛苦を重ねつつ発展せしめた国際法の基本原則を、一時的な行政府の政策的要請で変更するのは誠に危険な企(くわだて)である。イギリスの枢密院司法委員会(イギリスの最高裁判所)が、指導的判決であるサモーラ事件(ザモーラ事件)において『枢密院における王、いな凡そ(およそ)行政府が、わが国における裁判所の適用すべき法を定め、又はこれを変更する権限をもつといふような観念は、わが国憲法の原理と調和しない』と王に進言したことは、きはめて賢明且つ達識な態度ではなかったか……。独逸(ドイツ)のカール・シュミット一派の学者がドイツ第三帝国の政治的要請に合致するような新国際法を創造せんとしたことは周知の事実である。かかる企図(きと)は法を政治に従属せしめんとするようなものであって、光輝ある法曹の伝統にふさはしからずして一般に蔑視されたのである。かゝる企図は、その動機は如何に善良であっても、戦時中の憎悪と偏見の減退せざる今日に於て(おいて)は特に避けなければならないのである。各世代は次の世代にたいする深甚な責任感を以て、そして感情的偽善の影響の下に正義を装って誤った行動に出ることのないように、その行動にたいし反省することを要するといわれた。我々は我々の子孫の為にこゝに暫く(しばらく)歩を停めて、『地獄への道は善意で舗装される』という有名なドクタ・ジョンソンの箴言(しんげん)……に深く思いをいたすべきではないか」(小堀桂一郎『東京裁判 日本の弁明』(1995、講談社学術文庫)215頁〜216頁。( )内は筆者)と主張しています。 この文書は、ここでみたとおり、戦勝国が戦後に新たな国際法をつくって敗戦国の指導者を裁くのは許されない旨(「地獄への道」を歩んでいるのは戦勝国)を主張するものです。ところが、巷間では、次のように伝わっているようです。 「地獄への道は善意で舗装されている」という言葉については、「東京裁判で戦犯の特別弁護人になった東大教授の高柳賢三さんが使ったのを憶えてるんだがね。満州事変から大東亜戦争まで全部昭和軍閥の一連の共同謀議だという起訴状に対して、当局者の1人1人は誠実に解決を目指していながら、時局に翻弄されてズルズル破滅への道を歩んだのだ、と弁解した時の弁論でこの文句を引用した……」(倉田卓次『裁判官の書斎』(1985、勁草書房)7頁) ここでは、「地獄への道」を歩んでいたのは、日本の政府当局者だと理解されているようですね。これが、第2の逆説です。 かりに高柳賢三氏がこのような趣旨の主張をしていたとするならば、それは当局者の無策を認めるものであって、その無策を責められても仕方がなかろうと思います。しかし、弁護人である高柳賢三氏がそのような主張をすることはおそらくないでしょう。 ところで、高柳賢三氏は、サミュエル・ジョンソン(1709〜1784)の箴言として引用しているのだが、はたしてジョンソンはそう言っているのでしょうか。ジョンソンの弟子であるボスウェルが著した『ジョンソン伝』第2巻によれば、ジョンソンはこの弟子に対して、よく用いられる諺を引用する形で「『地獄は』善意で舗装されている」と言ってはいますが(1775)、「『地獄への道は』善意で舗装されている」とは言っていません。では、「地獄への道は善意で舗装されている」と言ったのは、いったい誰なのでしょうか。前出の倉田卓次氏が調べたところによると、ドナルド・アダムズ編『重要引用句集成』(1960)では初出・カール・マルクス著『資本論』(1867)と記されているとのことです。 『資本論』では、10ポンドの撚糸の価値15シリングが、10ポンドの綿花の購入に要した費用10シリングに、消費された紡錘の価値2シリングと労働者への賃金3シリングを加えたもの(つまり前貸ししたもの)にすぎない、という資本家の言い分を揶揄して、「俗流経済学に通じている資本家はおそらく言うであろう。自分は自分の貨幣を、これでより多くの貨幣を作り出すつもりで、前貸ししたのだ、と。しかし、地獄への道は、種々の良き意図で舗装されているのであって、彼は同様に、(たとえば株式や先物への投資など)生産することなしに儲ける意図をももちえたのである。……しかし……生産物の価値は、投入された商品価値の総額に等しいだけである……。……彼はこのような長い繰り言で、われわれを愚弄したのである」(向坂逸郎訳(1969、岩波文庫)31頁以下。( )内は筆者)と述べたうえで、このような説明は意図的に労働力の交換価値のみを強調し、その使用価値を覆い隠すものだと批判する。 マルクスは、資本家が労働者に対して労働力の交換価値に対応する賃金を支払い(善き意図)つつも、実はその使用価値と交換価値(使用価値>交換価値)の差額をかすめ盗っているとして、資本家の「地獄への道」と呼んでいるのでしょう。ここに第3の逆説があります。マルクスが激しく批判した帝国主義の道(つまり地獄への道)をひた走った、日本の政府当局者を弁護するために、皮肉にも、高柳賢三氏はマルクスが作出したとされる言葉を用いたというわけです。 最後に、高柳賢三氏は著名な法律家であり、おそらく「地獄への道は善意で舗装されている」という言葉を早くから知っていたと思われますが、そうであればなぜ……、なぜ戦前に日本の政府当局者に対してその旨を声高に叫ばなかったのでしょう。もしかすると、勉学に没頭するなかで、実は氏も地獄への道を歩んでいたのかもしれません。これが第4の、そして最大の逆説です。しかし、逆説というにはあまりにも惨く、悲しい出来事です。 |
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