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| 江藤新平という人は、明治維新新政府の司法卿をつとめた。今で言うと、法務大臣とい
ったところだろうか。 当時の日本は、長い間の鎖国状態から目覚めて、何が何でも外国と 付き合っていかなければならなくなった。当時は、どこの国も自国中心主義で、自国の利 益のために外国を利用しようとする気運がむき出していたから、どの国も日本を利用はするが、日本の将来のために働いてやろうと努力する国など無く、日本の将来は日本人自身 が考え行動しなければならなかった。 その時、日本の国が必要としたことは、外国、特に 欧米諸国と対等の地位で国交関係を維持する事を諸外国に認めさせることだった。 しかし、 すでに近代化の光を浴びた欧米諸国にとっては、何百年もの長い間、旧態依然の政治体制(専 制主義、封建主義、人権軽視主義など)を維持してきた国と対等の関係で国交を開くことな ど承知するはずも無く、当然のことながら、不平等な関係に甘えんぜざるをえない。それに対抗するには、新しい世界の一員として名実ともに充実した近代化の体制を作ることが、 当時の日本にとって急務であった。江藤新平はそういった状況の中で日本の法制度の確立 に大きな力を発揮し、現在の日本の国の基礎建設に大いに貢献した人物の一人である。 そこで彼にまつわる二つの話をしてみたい。 まず第1話は、人身売買に関するものである。 明治5年(1872年)にマリヤ・ルーズ号事件というのが起きた。どういう事件かというと、その年の7月にペローレという名前のペルー人が、中国、すなわち当時の清国のマカオに行って清国人230人を買い、奴隷として自分の所有する船であるマリヤ・ルーズ号に乗せて本国に帰る途中、横浜に立ち寄ったのである。 その際、横浜港で奴隷にされていた清国人の1人が逃げようとして海に飛び込んだところ、たまたまそこに碇泊中だったイギリスの軍艦に救助され、イギリス公使は日本政府に対してその処分を要求してきたのである。 そこで、日本政府はマリヤ・ルーズ号を 抑留して取り調べ、奴隷として買われていた清国人を全員本国である清国に送還した。船主であるペローレはその場から逃げ去り、本国ペルーに帰るや、その始末を自国政府に頼 んだので、ペルー政府は日本政府に対して抗議を申立て、さらにその損害賠償をも請求してきた。この争いはなかなか収まりそうも無かった。 そこで、当時のロシア皇帝が仲裁に 入って、ようやく日本政府の勝ちということで終止符を打ったのではあるが、この仲裁裁判の中で、ペルー政府は次のように主張して日本政府に抗議していたのである。 すなわち、日本政府は自国民に対しては芸娼妓(歓楽街で男性の相手をする女性)等の人身売買を公認 しているのに、他国民に対してこれを禁止するとは何事だ、というのであった。 人を売買の対象にすることは、その人の人格を無視することで、著しい人権侵害だから、 かなり昔から禁止されていただろうとは容易に想像できる。実際に日本においても、すでに律令時代に禁止されていた。 だが、人身売買を完全に無くすことは大変難しいことである。当時は奴婢(ぬひ)と呼ばれる最下層の人々の売買は法律上認められていた。 鎌倉・室町 時代になると、奴婢の売買も禁止され、江戸幕府も人の売買を禁止したのではあるが、それは永代売買が禁止されたのであって、数年間というように期間を限った年季売りは禁止 されなかったのである。 その年季売りは次第に年季奉公の契約の形となって残っていった し、養子契約をする事によりそれも一生実親子との縁を切って他人の養子に出すという形 で事実上の人身売買が行われていたようである。 現在は人身保護法や売春防止法で完全に 人身売買は禁止され、民法90条によりそういう契約の効力は否定されているが、でも風俗営業、芸妓置屋等をめぐって、この非合法現象が根絶されているわけではない、という難 しさを抱えている。 なんと言っても、人身売買禁止政策の最大の敵は、鎌倉時代以来700年以上も続いてきた公娼(こうしょう)制度であった。遊郭には派手に遊びまわる客人から落 ちるお金が躍動し、片や貧困にあえぐ農村地域の生活苦 が隣接すれば、おのずと人の流れ が人身売買の道を通じて生ずる事になる。 戦後1946年に占領軍総司令部(GHQ)は、日本の公娼制度を廃止したが、いわゆる赤線地帯といって売春が行われる特別地域の温存が図られたし、 また、占領軍のほうも、日本の公娼制度をなくしておきながら、かげで占領軍兵 士のために娼婦の提供を要請したのではないかとの疑いもあり、それらの周辺で反人権で ある人身売買が行われていたらしい。明治初年頃はなおさらのことであったろう。 このような状態であったから、ペルー政府の抗議は時の明治政府に一方ならぬ当惑を与える事になった。 ペルー政府の抗議は日本政府が依然として人身売買という非行を許す未 開の国である事を正式に世界にさらけ出した事になり、世界の文明国と肩を並べあうため に条約改正という難事業を目前にした日本政府にとって手痛い打撃となったことは間違いなかった。 江藤新平は、このような中で熱心に人身売買の禁止を主張し、マリヤ・ルーズ号事件から3ヵ月後の明治5年10月2日に政府は太政官布告第295号という国民に対する布告、いわゆる娼妓解放令をだした。太政官(だじょうかん)とは、明治元年から明治18年に内閣制 度ができるまでの間の日本の国家権力の最高機関であったから、今の法律のような効力が あったわけである。その布告は次のような趣旨であった。 人身を売買し、終身または年季を限って買主となった主人の意のままに極度に働かせることは人の道にそむくために古来から禁止されているが、これまで年季奉公などの名目で居住させ、実際は売買と同様のことが行われている。これは、もっての外のことなので以後禁止する。平常の奉公は1年を限る。 ただし、期間を更新することができる。 その場合は、証文を新しく書き直さなければならない。 娼妓や芸妓とされた女性、年季 奉公人は、一切解放する。そして、これに関する金銭などの貸し借りの訴訟は全て取り上げない。と。 これに続いて、江藤新平司法卿は、その7日後の10月9日にこの布告の施行令(司法省第 22号)を次のような内容を盛り込んで発した。 1. 人身を売買することは古来から禁止されていたから(このところはペルー政府の抗議 を意識していたのかも知れない)、年季奉公などの名称を使っても、実際上人身売買 となるときは、娼妓や芸妓の雇い入れの資本金は盗んだ金銭とみなし、それに苦情 を言う者は、あい正した上、その金銭の全額を取り上げる。 2. 売買された娼妓や芸妓は人身の権利を失っているから、牛馬と異ならない。人が牛馬に物の返済を求めるのは理くつに合わないから、彼女たちに貸したお金や売掛滞納金などは一切取り立ててはいけない。 3. お金を支払う対価として、人の子女を養女の名目で娼妓や芸妓として働かせること は人身売買となるから、厳重に処置をする。 だいだいこのような内容であった。 我々が今見ると、しごくあたりまえの事を言っているだけで、何らの新鮮さも感じられ ないかもしれないが、まだ明治維新後まもない今から130年前に、「人身の権利」という 考えを取り入れて、古来からの悪習を断ち切り、わが国が近代法の建前に則った政治体制を持っていることを内外に誇示し、日本が一刻も早く先進諸国と互角の地位にあって、 対等の関係に立てるよう、そのための法改革を目指して勇猛果敢に身を投じたことは、 彼の先見の明の面目躍如たるところであり、まさに今日の日本の法治国家の基礎の一こまとなった。 次に第2話に移ろう。 時代が明治に変わったころは、日本は、人々が慣習やしきたり やお上からのお触れ書などに縛られて日々の生活を送るといういわゆる不文法の時代で、 民法のような体系的な法律は無かった。 明治維新を経て、明治3年に太政官に制度調査 局が置かれ、江藤新平がその長官となって、民法を急いで制定することとなった。 彼は、日本とヨーロッパ各国とは風俗習慣が異なるけれども、民法が必要である点は同じであ るから、よろしくフランスの民法によって日本の民法を制定すべきである、という意見を持っていた。このように彼は、フランス民法を手本にしようとしたのであるが、どのように手本にすべきかという事については、どうも彼の急進主義から推察すると、フランス民法をただ日本語に訳したものを、ほとんどそのまま日本民法にしようとしたものらしい、といわれている。すなわち、箕作(みづくり)りんしょう博士に翻訳を頼み、ある 程度の訳文ができると、これをどんどん会議にだした、といわれる。 そして、「誤訳があっても差し支えないから、とにかく早くしてくれ」と急がせたという。箕作博士は大井憲太郎と共にフランスの商法、訴訟法、治罪法の翻訳を行った。江藤司法卿は「日本と西洋と慣習も違うが、日本に民法という法律があった方が良いか、また無い方が良いかといえば、それはあった方が良いではないか。 だから、フランス民法と書いてあるとこ ろを日本民法に直せばよい。そして、直ちにこれを領布しよう。」という急激なものであったという。 この計画は、その後中止となったが、これが日本において民法の起草の発 端となったことは間違いない。 その後、明治12年にフランスの学者であるボアソナードが司法省顧問として招かれ、民法草案を起草する事になり、日本人の委員も交えて明治 23年に完成させ、公布した。しかし、日本の国情に合わないことから、これは実施されず、明治26年に新たに起草作業を始め、新たにドイツ民法草案をも取り入れ、明治28年から30年に渡って各部分を完成させて、財産法の部分は明治29年、家族法の部分は 明治31年に公布され、両者そろって明治31年から施行された。 これが現在の民法であ る。そしてそのうち、家族法の部分は、昭和22年に日本国憲法の下で大幅に改正されて現在に至っているのである。 それにしても、2000年もの間孤立して近代化が遅れていた国民が、急遽西洋文化を取 り入れてそれと肩を並べるべき法体制を築くためには、このような荒療治も必要であったのだろう。 一時の失敗は後の戒めとなり、遂には成功に至るのである。ただ書き写し た民法から始まり、次には模倣の民法を迎え、遂に外国の知恵を消化し尽くした独自の 民法となるのである。 そのためのエンジンをスタートさせた江藤新平の力は大きい。 (穂積陳重著「法窓夜話」より) |
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